秋山 修先生
鬼平を愛し、江戸文化歴史検定1級合格を機に、江戸を「愛し、学び、楽しむ」ことを目的とする、深川・森下の自主クラブ「大江戸熱愛俱楽部」で講師を務める。現在、江の島と遊行寺の藤沢市在住。
江戸時代も現在も
人々であふれかえる浅草を歩く
講師: 秋山 修先生・関 一成先生
2024/11/16 開催
今回は、浅草見附跡から浅草寺までの史跡を散策。
天気予報では雨の可能性もあったものの、幸いにも当日は降られることなく、終始穏やかな散歩を楽しむことができた。
場所: 浅草橋・蔵前・浅草寺周辺
参加人数: 33名
散歩時間: 約3時間(約4.9km)
順路
秋山 修先生
鬼平を愛し、江戸文化歴史検定1級合格を機に、江戸を「愛し、学び、楽しむ」ことを目的とする、深川・森下の自主クラブ「大江戸熱愛俱楽部」で講師を務める。現在、江の島と遊行寺の藤沢市在住。
関 一成先生
江戸文化歴史検定1級合格。新選組のふるさと多摩に住んで、幕末史と歌舞伎、歌川国芳描く猫の浮世絵をこよなく愛する。講義は分かりやすく、面白くがモットー。歌舞伎検定2級も保持。
参加者は浅草橋駅近くの浅草橋公園に集合。河合泰男常任幹事が進行役を務め、西川豊和副会長が「気持ちよく勉強して帰りましょう」と参加者に挨拶。つづいて講師を務めるお二方からも挨拶があった。81歳になる秋山修先生は、「学生さんたちとOBの方が一緒に楽しむというのは他にはない珍しいイベント。ぜひ楽しんでほしい」と語った。関一成先生は在学生に、歴史を目的とした街歩き経験があるか問いかけ、「楽しいものですよね」と常連の参加者たちに共感を求めた。今まで何気なく見ていた場所に歴史があると気付ける機会だと言い、「普段は浅草の定番ルートしか訪れないと思うが、今日は心を尽くして浅草のあらゆるところを案内したいと思います」と意気込みを語った。
こうしてAチームとBチームに分かれ、いよいよ出発。スタート場所である浅草橋公園には、さっそく浅草見附跡という史跡があった。浅草見附門は、江戸城外郭門として設置された奥州・日光街道の要衝となる場所であった。江戸城のお堀を「の」の字に書くと先端の部分にあたり、日々厳重な警備がされていたという。また、先生からは、江戸時代の大火災である明暦の大火で、門から出られず多くの人が亡くなったこと、牢獄を管理する石出帯刀が罪人を火事から逃したエピソードも紹介された。
大きな銀杏が当時は目印であった銀杏岡八幡宮を通り、須賀神社に到着。須賀神社では、現在と江戸時代の地図を見比べながら、当時は隅田川沿いに幕府管轄の米蔵があったことがわかり、そこから「蔵前」という地名がつけられたことを知った。この米蔵をきっかけに貸付業である「札差(ふださし)」という職業が生まれ、裕福であった彼らの羽織り、下駄などの豪華な格好は「蔵前風」と呼ばれた。
次に甚内神社へ向けて出発。歩きやすい静かな下町に、江戸時代からつづく老舗やハンドメイドの店などを見つけ、散歩だからこそわかる街の面白さに気づくことができた。
甚内神社は幸坂甚内という人物を由来とした神社で、宮本武蔵に拾われ剣豪として名を馳せたが、盗賊となり病にかかっていたところを処刑されたという。その後、人々が祠を立てて病気平癒を祈るとご利益があり、信仰を集めた変わった経緯を持つ神社であった。周辺には、関東大震災の頃まで鳥越川という川があった。現在は埋め立てられているその川に架かっていた、甚内橋があった場所を歩き、次の目的地へと向かった。
鳥越神社では、毎年1月にしめ飾りなどを焼く『とんど焼き』の跡や、有名なお神輿についての説明を受けた。2チームが集まる場所でもあったため、先生や在学生、校友が互いに「神社に来ることは普段ある?」、「山や川にも神様がいると信仰されてきたんだよ」などと、笑顔で会話を楽しむ様子が印象的だった。
続いて向かったのは天文台跡。今ではラーメン店がある場所となっていた。この天文台については、特に秋山先生がたくさんのお話を用意してくれており、日本地図の測定方法や伊能忠敬、天文方という役職であった高橋景保などについて、熱心に語ってくれた。
西福寺は松平家にゆかりがあり、徳川の葵紋を掲げることが許されていたお寺。江戸時代の地図を見ると、当時は大変大きな敷地を持っていたことがわかった。ここには浮世絵師の勝川春章、家康の側室於竹の方、幕末に新政府軍と戦った彰義隊の墓があり、見学を行った。先生は歴史散歩でお墓を訪問することが多い理由として、「その人が実在していたことを証明する場所だから」と話した。
現代的な建築の蔵前小学校を横目に歩いていくと、蔵前神社に到着。この神社も当時は敷地が広く、勧進大相撲の拠点だったという。歩いてすぐの榧寺に向かうと、榧(かや)の木が出迎えてくれた。ここには宿屋飯盛(やどやのめしもり)という狂歌師の名でも知られる石川雅望の墓があり、次の大河ドラマの主人公である蔦屋重三郎と親交のあった人物であった。
駒形堂に向かう途中には江戸時代から続くどじょう屋があった。美味しいと評判の店で、現在でも多くの人に親しまれている。駒形堂の周辺はかつて船着場であり、船で浅草寺参詣に来た人々はここで上陸し、駒形堂でお参りをしてから本堂に向かったという。当時も多くの人で賑わっていたこの場所は、現在も観光客など人通りの多い交差点となっている。
さらに人が混み合う道を、校友会の旗を目印にはぐれないように進み、浅草寺二天門までやってきた。二天門は江戸初期に建造されたものである。浅草神社は『三社様』とも呼ばれ、多くの人出がある5月の三社祭が有名である。1649年3代将軍家光の頃の建築が一部今に残ることから、二天門とともに国の重要文化財に指定されている。
被官稲荷は、新門辰五郎が病気の妻の回復を祈願して、京都の伏見稲荷にお参りした後、お礼として建立したものである。被官稲荷から本堂の裏手へ歩いていくと、いくつかの碑や像が建つエリアが現れた。山東京伝は戯作作家・浮世絵師として活躍した人で、弟が亡き兄を偲んで愛用していた机を埋め石碑を建てたものが机塚となっている。また、幕末から明治にかけて活躍した九世市川團十郎という人が、歌舞伎の演目「暫」で見得をきる場面も像となっており、迫力に驚いた。
都内最古といわれる石橋や、六面にお地蔵様が刻まれている六地蔵石灯籠など、いくつかの史跡を見学したあと、迷子しるべ石の前で当時の迷子事情について説明を受けた。江戸時代は迷子を捜索するすべがなく大変だったといい、この石柱の片面には「こういう子はいませんか」と尋ねる情報、もう片面に預かっている子どもの情報を貼って探していたという。参加者たちは、今は警察が担っているその役割を、当時は自分たちで行っていたことに驚いていた。
そのほか、宝蔵門はホテルニューオータニの創業者大谷米太郎氏、雷門は松下幸之助氏がそれぞれ寄進したこと、門にかけられた大きな提灯に書かれている言葉、昨年の歴史散歩で見た時の鐘が浅草寺の弁天山にもあることを学んだ。美人画の資料を見ながら、江戸時代に評判だった美人についても教えてもらった。
その頃には辺りが薄暗くなってきていたが、浅草寺の人出は少なくならず、外国人が多く観光を楽しんでいた。「外国の人は浅草寺を訪れてどう感じるんだろうね」と思いを馳せる参加者もいる中、今年の歴史散歩は終了となった。
今回のコースは下町である浅草橋・蔵前から、人であふれかえる浅草寺までを巡った。先生方の軽妙な歴史話を楽しみながら、今回も在学生や校友が交流を深めた企画となった。